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里親研究協議会
公開講座レポート



平成22年11月6日(土)
奈良県天理市
天理教教会本部 おやさとやかた南右第二棟 2階研修室

「知ってほしい里親のこと」:青山学院大学 庄司順一教授 

<イントロダクション>

あなたの身近な里子は誰? かぐや姫はおじいさんおばあさんに里子として育てられ、月の親元へ帰った養育里親のケース。
桃太郎は同じくおじいさんおばあさんに育てられ、おそらくそのまま一緒に暮らした養子縁組的なケース。
夏目漱石もまた里子になった後に自宅へ戻り、次には養子になるという幼少期を過ごしている(最終的には本家に戻っている)。

<里親養育の概要>

養子制度は法的に親子になる仕組みであるのに対し、里親制度はある期間一緒に暮らし、子どもの成長を助ける仕組み。
養育里親は上記に加え、可能ならば親元へ帰ることをより意識した仕組み、親の代替から親の補完へと制度の立ち位置が変化してきている。
施設との違いとしては「緊密な感情の交流」があることがあげられる。
「仕事としての養育」と線を引く意識ではなく、もっと私的な領域に位置する人間関係。
社会的養護の担い手という公的な責任と家庭でともに暮らす家族という私的な役割を併せ持つ。
里親の養育は「個人的な養育」から「社会的養育」へとシフトする流れ。
社会的養育とは「里親に全てをおまかせ」するのではなく、里親を核とした社会のネットワークで社会的養護を必要とする子どもを育てるシステムのこと。

<子どもの育ちに大事なこと>

絶対的な信頼感:人間への信頼のベースを親との間で作る、それが形成されないと後々他人とのコミュニケーションで苦労する。
安全で安心できる環境:殴られない、見捨てられない、困ったら助けてくれる人がいる(施設もそうであるべきだけど…)
「いざというときに助けてくれる人がいる」と思えれば、いざというときまでは頑張れる、小さなことでくじけずやりぬいてみようという心情になる。
本当に困った状態になっても絶望しきることがないから強い。
十分な愛情と関心:特定の少数の人との心の絆、あたたかく親密で継続的な関係が維持されることが心の安定のベースになる。
退職があったり交代制勤務の施設では「いつも誰かはいる」状態だが、「いつも(ずっと)いてくれる人」がいないことが家庭とは異なる。
自己肯定感:「あなたは大事な存在」ということを伝えられると「生きていてもいい」という存在価値が自分に宿る。
被虐待児があびせられる言葉や仕打ちはその真逆。
ノーマルな環境:社会一般の規則性やしくみを家庭の中で自然に知っていくことで社会に溶け込むことができる。家の外と中が断絶している(あるいは大きくズレている)ような環境だと社会とのギャップに苦しむ。
応答的な環境:自分の行動に反応が得られることで自分の存在の意味や価値が感じられる。無視や存在の否定は何よりも子どもの心を乾かせる。

<里親養育の困難さ>

ある年齢からの中途養育=複雑な背景があることと、それを全て知ることはできないこと=関係性をゼロから始められない(※関係づくりは困難ではあるが決して不可能ではない)
養育の中断は決定的な失敗ではない、実親としても里親養育を経て親子関係の再構築が可能との認識が広まれば里親委託の同意も得やすくなるのではないか
子どもと実親の関わり:接点がないとかえって実親の極端な理想化をしてしまう子もいる、実際に自宅に戻ったときにまた破綻することを繰り返しがち
実親への直接の援助が里親にはできない(または困難)なのでその調整は児相が担ってほしいが、そこまで手が回っていないし、それを避けたいから施設措置を選択する傾向もあるのではないか(施設職員は直接親とかかわるから)
実の親でないということ:さまざまな場面での困難さがあるが、「里親ですがそれが何か?」という姿勢でいればいい。完全な親、理想の親ではない、里親も普通の親だから。
地域の理解の不十分さ:里親として語ることが必要な時代

<里親制度の課題>

里親制度・里親養育に関する教育の充実:せめて福祉分野の人材の教育課程に必須のカリキュラムとすること、「施設」は知っていても「里親」を知らない人のなんと多いことか
養育システムの充実:どんな子どもでも里親制度全体として受け入れられる体制の里親制度にすること
地域との連携:知ってもらう、協力してもらう、参加してもらう いきなり里親登録する人は少ない、まずは入りやすい活動からアプローチ
行政(児相をはじめとした公的機関)に里親制度の意義と困難さを理解してもらうこと


「里親体験発表〜わたしたちにできること〜」

<里親体験談>

里親のことを知ったきっかけは市の広報誌でお盆里親募集の記事を見つけたこと。
実子が5人いて、ここに1人増えてもそんなに大変にはならないと思って始めた。
その施設の職員さんが「普通の家庭を体験させたいんです!」と熱心に言っていたが最初はピンとこなかった、施設だってそんなに家庭と変わらないと思っていたから。
(自宅に来た子のエピソード)
朝、出勤する父の姿を見て「あの人は毎日どこに行っているの」と聞いてきた。その子にとっての大人=施設職員はずっと施設内にいるものという意識があったので、父が仕事(施設=家 の中のこと)もしないで遊びに行っているように見えたとのこと。 スーパーに買い物に一緒に行ったとき、房のままのブロッコリーを見て「何?このすごく大きいブロッコリーみたいなのは?」と驚いていた。その子が知っているブロッコリーは一口分に切り分け、調理された小さいものが当たり前だったので、栽培されているブロッコリーの姿を知らなかった。
昨晩のおかずの残りを朝食に出したところ「なんで残飯なんか食べされるの!」と反応。家庭では前の晩のおかずを翌日食べるのはあたりまえだし、つくり過ぎたら3日続くことだってある(笑)が、施設では衛生面の管理が厳しいのか「残ったら捨てる」のが常識になっていた。
朝ごはんを食べ終わった後、「今日のお昼は何?夕食は何?」と聞いてきたので「まだ決まってないよ」と答えたら「なんで?どうして?」と不思議そうな顔をした。施設では1ヶ月間の献立が先に決まっており、月の初めに貼り出されているから家でもそうだと思ったらしい、家族の好みや学校の給食のメニューなどを考慮してその日の献立を決めるという概念がなかった。

文字や本でしか世の中のことを知らないことが多く、実際の社会での体験がないものが多いと感じた。 社会で当たり前とされていることがわからない(そもそも知る機会がない)ので混乱したり、変に思われることがあるのだろう。これが普通の家庭を知るということなのかと後になって思った。

里親をしていると話すとたいていの人は「偉いわね」「すごいわね」と反応する。 けれど、里親は偉いわけでもすごいわけでもない「普通の大人」。 「普通の大人として子どもとすごす」ことをしているだけ、それしかできないし、それならできると思って里親をしている。 親とは違う大人とのかかわりがあることは子どもにとっていいこと、おじいちゃんおばあちゃん、おじさんおばさん、お兄さんお姉さん、心にうかぶ大人の顔が多いほどその子の心は豊かになると思う。 施設にいる子にも、多くの大人のかかわりがあるといいと思う、その1人が里親であり、地域の普通のおじさんおばさんであるように。みんなで子どもを支える社会であってほしい。 里親にもいろんな里親がいるほうがいい。大勢の兄弟の中にいたほうがいいという子もいれば、1人だけでかわいがってほしいという子もいると思うから、いろいろな人が里親になってほしいと思う。



<里親家庭で育った体験談>

現在成人し、自らも母となった。出生後病院に置き去り、乳児院を経て養護施設で5歳まで生活。何件かの里親宅へ行ったがそのたびに不調になって施設に戻った。里母が児相に「もうみられません、明日朝一番でつれて行きます」と電話しているのを階段の上から聞いていた記憶がある。最終的に受け入れてくれた里親宅でその後は生活、里母はそのとき55歳、3人の実子がいたが自立していた。

当初から数え切れないくらいトラブルを起こしてはそのたびに里母が周りに頭を下げてくれた。里子ということ=実の親子じゃないことを学校で言いたくなかった、保険証の色が違うこと、里母との年齢が離れていることを悪意なく聞いてくる同級生のほうがかえって残酷だった、自分の境遇が苦しく感じた。
そんな中で里母が病気で入院、まわりは「施設に戻したら」という人がいたらしいが、里父が「この子を帰しちゃいけない、俺が全部やるから」と言って譲らなかった。身の回りのことから運動会などの行事やお弁当の支度など、母のしていたことを実子である娘さんたちの協力も得ながら母が退院するまで踏みとどまった。
けれども問題行動は中・高に進むにしたがってより強化されたものになった、うそをうそで塗り固めるようなことを続け、非行といわれる行為もした。高校に進学するにあたり、里親の姓を名乗るようになった。
短大へと進学した2年目、弁護士から「実親の借金を支払うように」との支払い命令通知が来た。何でこんなことだけ親子として扱われるのか、悲しみと怒りが沸いた。
里母があちこちに出向いてくれ、結果として「学生なので支払い能力がない」という理由で支払いはしないでよいことになった。短大に行かせてくれたことが私を守ってくれた。働いていたらそのお金も持っていかれてしまったことを思い、感謝した。
卒業時に里母が勧めてくれた就職先を蹴って家出。3ヶ月くらいは自由になって楽しかったがその後は生活も乱れ、苦しいだけだった。あきれられて受け入れてはもらえないと思っていたが2年後に家に戻ることができた。家出をしたときにも、帰れる家があるってどこかで思っていたような気がする。
その後、里母が以前勧めてくれた障害者の作業所へ就職。以前の自分はハンデを持った障害者の人を「自分もハンデがあるけどこの人たちよりは上だ」と歪んだ見方をして安心しているところがあった。 いろいろな人を見て「親子であっても幸せじゃない人もいる、親子じゃなくても幸せになれる」と自分のゆがみを修正できたと思う。

養子縁組をすることについて、里母は「実親をうらみ、消し去るための縁組ではだめだ」との思いを持っていた。よく生んでくれた親への感謝という言葉があるけど、無条件に、ただ生んでくれたことだけに感謝をするというのが受け入れられない子もいると思う。私は里親からの愛情で満たされたことで自分を肯定し、親を恨まないことができるようになったと思う。
育てるということのすごさ、きちんと育てきることの素晴らしさ、そこには底知れぬ忍耐と愛情があったと思う。
試し行動と言われる問題行動について、私は22歳ごろまで続いていたのかなと思う。親だと思うからこそ、捨ててほしくないという思いがあるからこそ、ずっとしてしまうのかも。「捨てないよね?」と聞き続けるのかもしれない。

自立してからもその成長を見つめ続けてくれて、ふるさとになってくれるのが真実の親だと思う。
父は数年前に他界した、病床で「おまえに厳しくしてきたと思う、でも、おまえのことがとっても大切だったからそうしたんだ、お前のことが嫌いだったからじゃない、それをわかっておいてほしい」と言われ、涙が出た。確かに里父は厳しかった、そばにいると緊張するときもあった。でも父としての厳しさ、母の優しさがセットであったからこそ、自分はここまで育つことが出来たと思う。厳しさは表現の違う愛情だと思う。

夫は私の生い立ちを受け入れてくれたけれど、世の中には「親のいない子」を「得体が知れない存在」と忌避する人がいることをそれまで関わった人から教えられた。
里親家庭の実子であるおばさんたちにも、里子としての私の存在を理解してもらえたから私はよかったと思う。里子が家庭に来ることで親子のいさかいがあったり、里子と実子でうまくいかないことがあると里子としても辛くなるから。
同じ施設を出て養子縁組をしたけれど離縁をされた友人がいる。なぜ離縁をされたのかという理由を聞いたところ、私がしてきたことに比べたら「そんなことで?」と思うことだった。親の気に入る子でいなければ子どもにしてもらえないというのは間違っていると思う。親のための子どもであれというのではなく、子どものための親であってほしい、それを目的として養子縁組の制度であってほしい。

※上記内容は公開講座の内容を管理人が聞き、再構成したものです。

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