項目 内容

ふじ虹の会フォスターセッション
2014 参加レポート



平成26年11月2日(日)9:00〜16:00
富士宮市総合福祉会館
 安藤記念ホール


案内チラシ

※レポートは午後の内容のみです

ミニスピーチ

1:「夏に出会った中高生たち」

(印象に残った発言)
・社会的養護のケアを受けている児童(当事者)は同年代の児童よりも大人への警戒心が強い印象。
・施設を出て自由にやりたいという一人暮らしへの憧れはあるが、現実にそうなったときのイメージは乏しい。実体験を聞くと不安にもなるが、ぎりぎりになってからではなく進路を意識するようになる中学生くらいからそういう体験を聞く機会が必要と思われる。その不安を受け止めるフォロー込みで。
・当事者の大人モデルは福祉の世界に限られている感が強い、将来の希望職種を言ってもらうと保育士や施設職員、臨床心理士などがよく聞かれる、それ自体が悪いわけではないが個人の適正やもっと広い世界を知ったうえでの選択が望ましいと思う。
・施設の閉鎖性も改善傾向にはあると思われるが、一般家庭と比べると地域のつながりは弱い。親、兄弟、親族や知人を通じたつながりがないことも大きな制約。施設から社会に出ることの困難性を緩和するにはやはり地域が役割を果たすことが必要だろう。

2:「ハイスペック<ハイスキル 見えないスキルを活かせ!」

(印象に残った発言)
・普通の人こそが里親に向いている。
「リアルタイムな子育て情報、子ども関連の知識を持っている」
「子育てという共通項を持った人的ネットワーク、相談相手を持っている」
「子どもとの生活体験、直接の子育てスキルを持っている」

・いわゆる普通の子育てをしている、していた人こそ里親に必要なスキルを高いレベルで持っている。
・いくらハイスペックで高学歴・高収入で資格や地位があっても「普通の子育て経験者」の方が上だし必要とされる。
・里母の多くは地域のつながりが乏しく、ママサークルに入っていけない(出産や兄弟の話題に入れない)ので里母の事情をわかってくれる「普通の子育て経験者」が里親になってくれて里母も包み込んでくれたらいいな。


3:「子育てママのリアルボイス」

(印象に残った発言)
・少子化、人口減少問題には国のマクロレベルでのしっかりとした計画による対策が必要。
・じゃあ、ミクロの対策はというとちっちゃなちっちゃなことが必要。例えば「あったかいご飯が食べたい」「のびてないラーメンが食べたい」「ひとりでお風呂に入りたい」「そんなのやればいいじゃない」と知らない人は言うだろうけど、それすらもできないんだって!というのが子育て中の叫び。
・「子育てに大事なのは地域のつながり」ってどこでも言われるけど、どこにそんなのあるのと思う。どこに行っても親子だけで孤立している感じ、生まれ育った土地にいないと人の縁はないし、ネットで探してもなかなかたどりつけない。
・地域のお祭りに出掛けて焼きそばを買ってもただ寂しく立ち尽くし、泣く子を抱えて家に戻って食べるだけ。祝祭=非日常を楽しめるのは、日常での地域や人とのつながりががあってこそ。そこに入れていない私には祭りは祭りになりえなかった。
・非日常的な一時・一瞬の支援よりも、日々の中での寄り添いが欲しい。
・「苦しい、助けて」という悲壮感より、共感を得られる子育ての楽しさからつながりを始められたらいい。
・寄り添いというつながりを得るためには自分のニーズが何なのかを見つめ、それがわがままに聞こえないように発信することが必要。
・例えば、保育園って誰のために、なんのためにあるの?という問いを立ててみる。子どもだけのため?母親だけのため?そうじゃないよね、大きくはこの国や世界全体の現在や将来のために存在するんだよね。


4:「もしも私が里親になったら」

(印象に残った発言)
・里親になれるか否かを金銭面で具体的にとらえることをシミュレートしてみたらどうだろう?現在の収入と手当+αで「無理」ってことはそんなにないという結果が出ることが多いだろう。
・「里親とはどういうものか、どうあるべきか」というところからスタートしないほうがいい。「里親」としてルールどおりに育ててる人なんていない、誰しも「自分」として育てている。
・里親という属性は自分の中の一部分でしかない、一人の人間として子育てをするという意味合いのほうが占める割合は多い。里親になったからといって自分の何かが変わることはないし、変える必要もない。
・自分の人生を必死にやることのプラスαに里親としての生活があるという感じになると思う。里親としてどうなんだろう、どうしたらいいだろうというのは近視眼な悩みになってしまう。自分として、ひとりの人間として俯瞰的に観れば別の道が見えるのではないだろうか。
・自分は長年肢体不自由児施設で生活していた。週末外泊はしていたが、実家という感覚は施設のほうがそれっぽい。信頼できる、一緒に生活したいと思える存在が家族と感じられる対象。


緊急会議「そろそろ性虐待について考えよう」

(印象に残った発言)
・性虐待は計画的な犯行である、出来心でとかそんなことはない。見つからないようなところで、犯行後に口止めをするなんてのは準備がなくちゃありえない。
・性虐待は魂の殺人である、PTSDやうつ、離人症など、殺されずに生き残ったサバイバーの苦しみは一生続く。
・性虐待は全ての暴力につながる、性的刺激を満足させるだけで終わることはない、支配関係や身体・心理的な暴力も加わり逆らえない、誰にも言えない状態に追い込まれる。
・目撃が性的虐待となる仕組み。性的な関係を持つことが人間関係構築のモデルになってしまう。正常なコミュニケーションを身につける前に他人と仲良くなるためにはこういうことが必要なんだと刷り込まれる。
その歪んだ認識による行動は他人を遠ざけるし、他人から遠ざけられる原因にもなってしまう(性的逸脱行動)。
・コンビニのトイレのすぐ前にはどうして成人向けの雑誌があるんだろう、そこを通らずには子どもはトイレに行けない。これって全国規模の企業による性的虐待なんじゃないの?


鼎談「Mamaは1日にしてならず(Papaも忘れないでね)」

(印象に残った発言)
・妊娠、出産、子育てをマイナスではなくプラス要因とすることができる。 ・母になるということは、苗字でも名前でも呼ばれなくなること。「お母さん」呼びかけられ、思わず周りを見回した後、え、私?と気づいたときの衝撃1。
・出産前は「○○さん」と呼んでくれた看護士さんが出産したとたん「お母さん」としか呼んでくれなくなる衝撃2。
・産後まもなくなのに「赤ちゃん泣き止ませて」と完璧な母親の役割を無茶振りされる衝撃3。
・街を歩けばどこでも一般論的な母親像を求められ、少しでもやらかそうもんなら動画をネットに上げられて通報されかねない境遇にいるという衝撃4。
・周囲に「(出産して)幸せだねー」と言われつつ、「幸せじゃない・・・」と思っている自分に泣けた。
・そんな日々の後、誰かと「しゃべれる」ことだけで救われた(子どもとは会話にならないから)。
・「人に迷惑をかけないこと」が正しい道だと信じてやってきたが、子どもは絶対に迷惑をかける存在。インドの教えで「人は他人に迷惑をかけてるんだから、他人からの迷惑もお互い様と許してあげなさい」というものを知って、そのほうがラクだなーと思った。
・母子手帳に有効期限付きの無料託児券をつけてくれないものだろうか、期限があれば「もったいないから使う」が「引け目」を上回るんじゃないかな。ムリヤリにでも息抜きの時間を他人が確保してあげることが必要なんじゃないだろうか。

・何にも自分ではできない子どもをみてると「あー放っといたら死んじゃうんだなー」「自分もそんなんだったんだなー」と感じた。
・自分では何一つできなかった自分が今のようになるまでは、ひとりで大きくなったつもりでいたけど、多くの人にいろいろしてもらったんだなーと思った。
・それは今でも同じこと、ひとりではまだまだできないことがある、それで当たり前だし、助けられて助け合って生きていくのだ。
・助けられる立場になると、助けが必要なヒトやコトやモノに目が行くようになる。それが見えることで自分にできることも増えていく。
・制度を作るのはいいけど、制度を活かすには「一切の遠慮なく制度を思いっきり使っていいんだよ」という社会にならないと。
・保育園はちゃんとした制度なのに、使うことに引け目を感じるなんて理不尽じゃない?
・まずは自分ひとりからでもやってみること。どんな目があろうが、何を言われようが、なんとかなることは多い。


ラストスピーチ「ふつうになりたい」

・一時保護から複数の施設を経て小学5年生で里親宅へ。実の両親のもとへ戻らないことについては「ああ、(両親は迎えに)来ないんだなぁ」と思ったが、何故とか、悲しいとかの思いはなかった。あとは「これで自由に(職員の許可を得なくても)好きなところに遊びに行ける」 と思った。
・施設を出て里親宅へ来たときに「ふつうになりたい」と思った。施設はふつうのところじゃないんだなーとは子どもながらに思ってた。
・「ふつう」って何だろうと今思い返すと、自分のイメージする世間一般の「ふつうの子」になることだったように思う。自分がまだふつうじゃなかった部分は里親を「お父さんお母さん」と呼ばないと変だなぁと思ってたこと。勉強ができてそれなりの高校に行くことも普通の定義だった。
・自分の生い立ちに向き合うことになったのは大学で保育のことを学んだとき、自分の経てきた歴史が(客観的にだが)講義で取り扱われたこともきっかけ。発達のことや愛着のこと、社会的養護のことも別の学部だったら詳しく知らないままだったのかなと思う。別の分野に興味を持ってそっちに進んでたらまた違った心持ちだったのかもと思う。
・自分の過去に向き合うのはつらいし不安、でも楽になった。この経験がこうして話す機会とかで他の誰かの役に立つと思うと悪いばっかりでもなかったかなと思う。いまでも整理しきれるものじゃないのでもやもやはしているけど。
・養子縁組については里母から「戸籍を移すよ」ともう規定路線のような形で話が出た。もやもやの最中で「今さら断るのもなぁ」という感じで「いいよ」と言って進んだ。
・里親、施設職員に伝えたいこと。子どもは期待もしているけど遠慮もしている、その表現の仕方は様々。大人の受け止めだけで子どもの気持ちをわかったつもりにならないでほしい。いろいろな事実については伝えるタイミングを大人の都合や考えだけで決めないで子どもの 都合も考えてほしい。どのタイミングがベストとかいうのは難しいけど、自分個人としては進路選択などの材料にもなるのでもっと早く知っていたらよかったかなという思いもある。
・施設にいても里親にいても、子どもが自分の感じた「ふつうになりたい」という違和感が生じないようになればいいなと思う。


(感想)
昨年に続いて参加させていただきました。主催のふじ虹の会の坂間さんのエンジンも快調のようで端々にエッジの効かせ方が鋭くなってきているように思いました。里親養育と社会とのギャップをなくしていくには多様性を個々人のレベルで受け入れあうことが有効なのだと感じました。

※上記内容はセッションの内容を管理人が聞き、印象に残った部分を再構成したものです。「発言」と表記していますが、管理人が受け止めた心情を加味した表現であり、発言者の言葉どおりの記録ではありません。

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