項目 内容

ふじ虹の会フォスターセッション
2015 参加レポート



平成27年11月1日(日)9:00〜16:00
富士宮市総合福祉会館
 安藤記念ホール


案内チラシ

※レポートは午後の内容のみです

ミニスピーチ

「想うもの・願うもの」

1:「寄宿舎の子どもたち」

(印象に残った発言)
・専門的な医療や療育、訓練が必要な肢体不自由児施設に入所している児童は、家庭で生活している児童と比べて知識や経験の不足がある。
・ある児童は土曜の明るいうちに家に帰り、日曜の明るいうちに施設に戻るという限られた時間帯の外出経験しかなかった。初めて夜間に外へ出たとき、コンビニの灯りを「きれい」と表現した。夜景の名所でも何でもないのにと自分は違和感を感じたが、そういったギャップを抱えているのだと気づいた。
・土日しか、それも毎週ではなく月に1、2回程度しか自宅で生活しない。それだと家族のいいところしか見えないため、家族でありながら関係がなかなか深まらない。親きょうだいとの関係がうまく築けないのは自分のせいだと自責の念を抱いてしまう。特に幼少期は家庭での生活が望ましいと感じる。
・様々な家庭の事情などをふまえての施設入所であり、その選択をした親を責めることはできないが、社会的なサポートが充実していれば違う生活の形があったのではないかと思う。
・児童だけでなく親もまた、ロールモデルになるような先輩や仲間とつながることが必要。
・悩み、失敗し、泣く体験の機会が必要で、そこから考えることに寄り添うことを続けていきたい。

2:「若者や暮らしやすいまち」

(印象に残った発言)
・「支援」の専門家の周りにいる、「支援」の専門家ではない地域の人の輪が支援を支える。
・若者の手を引っ張ったり、お尻を押したりせず、伴走するおせっかいな人という存在。
・若者を預かり、地域とつなぎ、地域の中へ戻す活動。就労の達成のみがゴールではなく、働き「続ける」ことを目指し、つまづいたときにフォローができる、相談できる場所となる。
・口コミで「あそこは私たちにとって暮らしやすいところだよ」と若者が集まってくるまちにしたい。

3:「失うものを減らす・校区里親」

(印象に残った発言)
・校区とは小、中学校の学区のこと。
・家庭にいられなくなり、一時保護された後に家庭とは別の場所(施設など)で生活を始めることになった子どもは多くのものを失う。 ・自分の家族、近所の人、学校の友達、先生という人間関係。思い出を共有できる人間関係。自分の部屋、家、近所の遊び場、通学路、商店街、思い出の場所という空間。思い出の染みこんだ風景と雰囲気。大きくとらえれば、それは子どもが築いてきた子ども時代の全てに等しいもの。全て失くして新たな環境でスタートすることの辛さは想像するに余りある。
・施設入所などでと同じ校区に里親がいれば、子どもは地域から離れずに生活できる可能性が高まる。起きてしまった家族やきょうだいとの分離という出来事から受ける、避けられないショックを少しでも和らげる助けになる。
・そもそも昔は行政の関わりが無くとも、ご近所さんや地域の大人などの助けでその子を危機からを守れていたこともあるだろう。
・具体的に校区ごとの里親所在を確認し、リクルートで里親の空白地域を失くそう。

鼎談1「いのちの葛藤・つなぐ縁」

(印象に残った発言)
・最初から養子縁組を希望する里親には、養子縁組したということを知られたくないという思いを持つ人もおり、里親会に入会しない人がいる。その人たちを里親会としてサポートできていないことが課題。
・「血縁を重視する日本では海外のような養子縁組による養育は少ない」という言説があるがこれは正確ではない。データとして、終戦の年には年間45,000件も行われていた。家を継がせるために親族の子どもとの縁組をするという事情もあっただろうが、日本人の特性との相関関係は必ずしも認められない。
・一方、1989年ごろから体外受精児は増えてきている。不妊治療を経て養子縁組希望里親となる人も同じように増えていると推測される。不妊当事者の経験と意識に関する調査によれば、不妊について抱いている考えや意識は大きく異なるとされる。不妊経験の整理を行わずに非血縁養育に臨むことは困難を伴うのではないかと思われる。
・公的な里親制度については特に「子どもの福祉のための制度」ということが最優先されると説明されるが、それに里親希望者の意識が合致しないことも想定される。そこにギャップを抱く人は、一度立ち止まって不妊についての振り返りという過程を経たほうがいい。
・自分にとって「親になること」とは人生においてどのような意味を持つのかを考える。産婦人科や助産、不妊カウンセリングの視点を養親研修に組み込む、リクルートの際に説明するなどの試みが有効ではないか。

・産んだ子を託す女性の心理について。「育てたかったができなかった、ふがいない自分」という自責の念を持つことがある。
・虐待や不適切な養育を受けたために頼れる大人がいない、シングルマザーとしてやっていく基盤を持たない。初めて愛せる家族ができたのに、それを育てられない辛さ。また、性犯罪の被害を受けたため、加害者の子であるために愛情を持てないという葛藤を持つこともある。
・行政は支援を行う必要のある妊娠の状態を便宜上区別するために「望まない妊娠」という言葉を使っているが、もう少し配慮のある言葉遣いをしてほしい、例えば「養育できない状態の妊娠」とか。
・支援のメニューはいろいろある(助産制度、婦人保護施設、母子生活支援施設、児童扶養手当、社会的養護)けれどそこにつながることが難しい人も多い。DVによって住所を移していないため、そこの市の住民でないから市役所へ足が向かなかったり、相談できることすら知らなかったりする。
。 ・中絶をするかもしれないと考えていても、妊娠したなら母子手帳をもらうことが当たり前になるように啓発をしていくことが必要。
・「生まれた子を大切に育てたいと待っていてくれる人がいる」ということで、未婚での妊娠でも少し安心して産むことができるという。
・「あなたがいらなかったわけじゃない」「自分では育てたくても育てられない事情があった」ということを子どもがわかるように。無責任に捨てられたのではない、できる限りあなたを守ろうとした産みの母がいたというメッセージはその子の育ちにも、養親の気持ちにも大きな助けになる。。
・事情によって、産みの親の家庭で暮らせないことが最初から決まってしまっていても、少しでも誰かとのつながりにおいて豊かに生まれてこられるように、生まれる前と生まれた後の支援を。

・現在の児童相談所による養子縁組のマッチングは管轄区域の壁があることで有効に機能していない場合が多い(とある児童相談所の管内に養親希望者はいるが対象の子どもがいない、またはその逆)。全国共通の養親希望里親データベースと養子縁組が必要な児童のデータベースを整備すればその壁を越えられる。民間団体との壁もなくせればさらにいい。


鼎談2「子ども時代を編む〜夕餉の煙の思い出〜」

(印象に残った発言)
・子ども時代を編むときに、毛糸のセーターを編むことに例えれば、毛糸自体がなくてそれを探すところから始める人もいれば、編みあがった一部が焦げている人もいる。
・振り返りは主観によるもの、他の人と比べることに意味はない。そして、捉え方は後からでも変えられる。
・人生を振り返ることは、この先の人生の自信になる。これまでの自分がいなければ今の自分もこれからの自分もないし、この先やっていけると思えないから。満点の過去でなくても、間違いなく自分の基礎にはなっているから。
・記憶は薄れる、記録は残る。記録の客観性を担保するために、当時の自分の周りにいた大人が当時の自分に起きていたことをどう捉えていたかを記録や記憶に残しておいてくれると振り返りの助けになる。
子どもは自分に何が起きているのかを理解できないことも多いから。写真や文書だけを見るよりも、そのときの自分を見てくれていた人がいたことを知ることが嬉しい。
・子どもへの寄り添い方、子どもが寂しく子ども時代を思い出すのではなく、楽しく、嬉しく思い出せるものを家族に限らず、いろんな周りの人が残してあげてほしい。具体的な振り返りの材料が多いに越したことは無い。
・真実告知という行為が里親家庭では行われる。伝えるのは「事実=出来事」ではなく「真実=出来事+そこにあった思い」。


ラストスピーチ 里親体験談

(印象に残った発言)
・子どもは周りの大人が自分を気にかけてくれることが嬉しい、そんな大人がいてほしいという思いから里親を始めた。
・短期で預かっている子どもを長期にわたって養育してあげたいという思いは何度も抱いたが、親の同意が得られないという壁に何度も阻まれた。しかし、それでも成人式を終えて訪ねてくれたり、縁によって近くに住むことになるなど、続いている関係もある。
・近頃は制度面で親権に関する取り扱いは変わってきていると聞く、里親の想いを汲んでくれる行政の対応であってほしい。


(感想)
「地域で子どもを育てる」ということを次々に具体化、拡大していることが毎回感じられるこのセッション。今回はクラウドファンディングを活用した物理的な距離の壁を越えた支援(開催資金の寄付)を受け入れるなど、様々な可能性を広げておられます。 毎回感じるのは壇上と会場の距離感が非常に近いということでして、会場の客席から壇上の発表者への道は地続きであり、両者の融合による化学反応が何かをまた生み出していく期待感を抱く雰囲気があります。

※上記内容はセッションの内容を管理人が聞き、印象に残った部分を再構成したものです。「発言」と表記していますが、管理人が受け止めた心情を加味した表現であり、発言者の言葉どおりの記録ではありません。

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