「あの小説の中で君に伝えよう」




放課後の図書館。
カウンターによりかかり、ノートに向う少女が一人。シャープペンシルを止め、ノートを隣にいる僕に差し出す。
「どうぞ」
無言で受け取り、読む。
、、、、、、。
うーむ、そういうことか、、、、
いや、しかし待てよ、確かそれは、、、。疑問を抱き、ノートの数ページ前を読み返す。
やはりおかしい。
「由紀江ちゃん」
僕は松原由紀江という名の隣にいる後輩に呼びかけた。
「はい、何でしょう」
「この人ってさ、確かここに1日前に着いたんじゃなかったかな?」
「え?」
「なのに何故1週間前に起きた事件を目撃しているの?おかしくない?」
「えー?」
「だってさ、ほら、この部分
『いやー、まいったまいったここに着くまでに迷ったの、迷わないのって約束の日の1日前かー、危なかった』って言ってるじゃない、今日がその約束の日なんだからこのイシュティって人が1週間前に起きた事件を目撃しているのはおかしいよ」
「あ、それは違うんです。もう少しあとの部分を読んでもらえるとわかるんですけど、、、あ、ここです。ほら『方向オンチの俺にしては早い方だよ1桁に抑えたんだから』これはこの街に来てから宿屋を探すのに費やした日数が1桁ということで約束の日に9を足して10日、つまりイシュティは10日前からこの街に来ていてこの宿屋を探すのに9日かかったってことなんです、おわかりいただけました?」
「由紀江ちゃん、、、間違い探ししてるんじゃないんだから、、、」
「でも小説としては筋は通ってます。方向音痴ってことも言ってますし」
「、、、そうだね、、、」
僕はムリヤリ納得してその続きを書くことにした。

これは僕が2年生の終わりのころから始まったリレー小説のノートだ。暇なこと極まりない図書館当番の仕事があまりにも退屈なことと常連メンバーが一斉に古いファンタジー小説にはまったこととが相まって「自分達で小説を書いてみよう」との話が出た。

言い出したのは当時1年生の茂持さんという女の子、みんなが読んでいる小説に一番にハマり普及させた張本人だ。当然一番に全部読み終え、彼女は自分でも書いてみたいと思い、執筆を始めたのだがどうにも筆の進みが鈍く、このままでは卒業までに完成できそうにないとの見込みに至った。
そんなある日彼女は友人の演劇部員の持っていた台本に目を留めた。
100ページを超えるなかなかの文章量の表紙に「構成者」として友人の名前を
見つけた彼女は友人にこう尋ねた
「ねえ、この台本って自分で書いたの?」
「うーん、そうだといえばそうかもしれないけど、、、」
「どういうこと?」
「えーとね、大筋を考えたのは私なんだけど、細かいセリフは役者を
やる人に即興でつくってもらったの、それをうまくつながるように
わたしがまとめ直したのがこの台本ってわけ」
「へー、そんな作り方もあるんだぁ」
「この方が一人でウンウンうなってなくていいし、できるのも早いのよね」
「どのくらいかかったの?」
「1ヶ月と少しかな」
「へぇ〜、、、、!そうか!これだぁ!」

ということで舞台設定を茂持さんが考えて常連メンバーが各々登場させたいキャラクターを受け持ってセリフを言わせる、それで一つの小説を創ろう!という提案に暇をもてあましていた僕を含む3人が手を挙げ、執筆は始まったのだった。
しかし脱線も多く、皆が妙にウケをとろうとするので話はちっとも先へ進まず、主な登場人物が一ヶ所に集まって現実で2週間たつのに物語上では2日も進んでいないという状況であったりする。今日も今日とてこんな調子で先ほどからちっとも話は展開を見せず1時間が経過しようとしている。

相変わらず人が少ない放課後の図書館、ひそひそ声でこんなことを続けているところに来訪者が現れた。茂持さんと涼風さん、ともに図書委員会の古参メンバーである。と、いっても今の時点では誰も正式な図書委員というわけではない。新学年になってまだ数日、委員会の正式な発足は来週ということになっているからだ。ゆえに当番という義務も存在しない。それでもここに集まってくるメンバーはおそらく今期もこの意味の薄い当番表に名を連ねることにはなるだろうが。
「こんにちは」と涼風さん
「お疲れさまでーす」と茂持さん。
部活終わったの?と声をかけると二人ともから「はい」という答えが返ってきた。そして僕と由紀江ちゃんの前にあるノートを見ると茂持さんが
「あ、進みましたぁ?見せてくださーい」
と言うが早いかページをめくり始めた。涼風さんも控えめに横からノートを覗き込む。僕の心にちょっとした緊張が走るこの中でただ一人小説の執筆に加わっていないのが涼風さん、つまり純粋な読者という視点から評価をくれる唯一の存在なのだ。言ってみれば彼女の評価が一番まっとうな評価だということで、他のメンバーに読まれるときとは少し違った思いがあるのだ。

と、固唾を飲んで見守っていたところ、急に茂持さんがその手を止めて
「あ、違った、そうじゃなくてちょっとニュースがあるんですよ。」
とカウンターの中の僕らに話しかけてきた。
「ニュースって?」
由紀江ちゃんが興味深々という様子で体をのりだしつつ尋ねた。
「それがね、、、」



茂持さんの話を要約するとこういうことだった。

事件の発端はメンバーの一員で次期委員長と目される三蔵のクラスで起きた。
各委員会の委員の選出のためのホームルーム。立候補制で挙手をつのるお決まりのやり方。面倒くさいと嫌われることが多い委員の役を自ら担おうなどという人はその仕事に情熱を持っている人か、僕らのように委員会のいごごちがいいと感じている人ばかりなので、多くのポストは担任の指名や他人からの無責任極まりない推薦という形で埋められるのが常なのだ。

が、三蔵のクラスでは違っていた。今まで委員会などというもの、いや、クラス活動にさえ積極的に参加するそぶりも見せなかった(茂持さん談)生徒の何人かが自ら手を挙げたのだ。その中には図書委員を希望する男子生徒も一人いた。三蔵と茂持さんはもちろん図書委員を希望して立候補していたが、今までの流れからしてまさか競合する者が現れるとは思ってもいなかった。
「三蔵くん、困ったね」
と茂持さんが声をかけたとき、三蔵は「そうだね」と不安げな返事を返しただけだったという。

慣例で各委員は概ね男女1組が各クラスから選出される。どうしてもいない場合は同性2人ということもあるが、男子2人女子1人が立候補しているこの状況では茂持さんはまず当確。三蔵かもう一人の男子かという争いになるわけだ。

競合した委員が他にもいくつかあったので1つずつ投票で決めることになった。保健委員と美化委員、そして図書委員が投票の対象になった。何事もなく進むかに思われた投票だったが保健委員の投票の最中、大下という男子生徒がこんなことを大きめの声で叫んだことで事態は少しおかしくなった。
「おーい、早く決めようぜ、どうせ内申書の点数稼ぎが目的なんだから 成績の悪い奴にやらせてやりゃあいいんじゃないのぉ?」
教室の空気が一瞬凍り付いた。そして一斉にザワザワとしだす。
「そんなこと言うものじゃない」
担任が一喝したが当の立候補者たちの顔は笑っていなかった、が怒ってもいなかったという。図星というやつだろうか。

三蔵はというとあっけにとられた顔をしていたという。当然だろう、彼は内申書のことなど全く考えずにただ委員をやりたいという思いから手を挙げたのだから。しかし、大下の矛先は三蔵にも向けられた
「八野(三蔵の苗字)もよぉ、1年のとき2期もやって十分点数稼いだだろ、今回は譲っとけって。俺、部活遅れると罰マラソンやらされんだからよぉ早く決めちまおうぜ。」
三蔵は無言だったという。それが気に食わなかったのか攻撃は続いた。
「おーおー、頭脳明晰、学年10位以内を常にキープする八野くんは委員会を適当に手を抜きつつこなして内申書も完璧にして推薦入学を勝ち取って入試を楽にきりぬけようってわけですか。赤点スレスレ遅刻常習犯の俺には真似のできない芸当ですなぁ、うーらやーましぃー。」

「何だそりゃ、めちゃくちゃなこと言う奴だなぁ」
思わず僕は口を挟んだ。
「でも三蔵ってそんなに成績よかったんだ。頭の回転が速いなとは思ってたけど、学年10位キープねぇ」
由紀江ちゃんは知ってた?と水を向けようとしたところ

彼女は泣いていた。
肩を震わせて泣いていた。
そして小さな声で訴えていた。
「どうして、どうしてそんなひどいこと言うの、、、三蔵くんはそんなこと考えてないよ、、、三蔵くんはすごく頑張って委員会の仕事してるよ、放課後すごく遅くまで残ったり、昼休みだってほとんど毎日、、、何にも知らないのに、何にも知らないのになんでそんなこと言えるの?、、、ひどいよ、、、」
「もちろん、私がそれを言ったよ」
茂持さんが由紀江ちゃんの肩に優しく手を置いて続けた。
「三蔵くんは自分が言っても言い訳にしか聞こえないと思って 何も言わないんだろうと思ったから、どんなに頑張ってやってるか見てきたってことをみんなに話したよ。」
投票結果は三蔵の圧勝だった。
騒ぎの張本人は「終わり終わり!」と言い放ち、さっさと部活へ行ってしまった。三蔵も「じゃ、、、今日部活長くなるから」と茂持さんに図書館に寄らない旨を伝え教室を後にしたという。

話はそこで終わったのだが由紀江ちゃんはまだ瞳に涙をためていた。
茂持さんは
(こんなことになるとは思わなかったなぁ、、、)
という感じの困った顔を僕に向けつつ由紀江ちゃんによりそっていた。涼風さんも心配そうにみつめたままだ。
空気が重い、重過ぎる。
いつもこういう雰囲気を吹き飛ばす立場の由紀江ちゃんがこうなってしまっていると場を明るくする人がいないのだ。ここはなんとかしなければ、と思い無理にでも話を切り上げようとして立ち上がり声を上げようとしたのだが、由紀江ちゃんの姿が目に入ると何故だろう、何も言えなくなってしまった。どうしていいのかわからない、というより何もしてはいけないような気がしたのだ。こんな感覚は今まで味わったことがなかった。しかしいつまでもこのままというわけにはいかないという思いもあり、「さぁー、じゃあ今日は、あのー」などと何も考えていないのが丸出しの大きめの声を出したところパシーンといういい音がした。それはいつのまにか後ろに立っていた司書さんの扇子が僕の頭を叩いた音だった。
「確かに他には誰もいないけど、騒いでいいとは言ってません」
「すいません、、、」
ポン、と僕の肩を叩いて司書さんは館内の見回りを始めた、僕らもそれに続く。その日はそれでお開きとなった。形としては司書さんに救われたのだ。感謝である。


図書館を閉めて、階段を下り、みんなで下駄箱まで歩いた。自転車置き場でそれぞれが自転車にまたがったのを確認して
「それじゃ、みんな気を付けてね」
と声をかけた。
「はい」
「はい」
「はーい」
いつも返ってくる返事だったけどこの日は少し違っているような気がした。何か放っておけない気がして
「由紀江ちゃん」
帰りの方向がこの3人の中では近い方だったからだろうか
「途中まで一緒に行こうか?」
と提案したのだった。
「え?!」
由紀江ちゃんはぽかんとしたような表情で僕に向き直った。が、すぐに
「い、いいですよぉ、一人で帰れますよぉ、子どもじゃないんですからぁ」
といつもの調子で返してきた。それに少し安心して
「じゃ、また明日」
と僕も応えてそれぞれの家路につく後輩たちを見送った。そして少しの後、由紀江ちゃんとは違う道を選んでペダルを踏み出した。

一人になって国道を自転車でひた走っていると、思い浮かぶのはあの光景だった。カウンターの中でしゃがみこみ、うつむき肩を震わせる彼女の姿。涙なんて初めてみせた彼女。それにも増して自分のことじゃないのに他人のために泣けること。衝撃と言ってもよかった。そんな人がいるんだなって驚きにも似た感情が僕の中に生まれていた。
(優しいんだな、、、)
単純にそう感じたのだろうと思っていた。しかし、帰宅して宿題を始めてもその震える背中に感じた不思議な感覚が残っていた。何気なくメンバーで撮った写真を見ると動かない彼女をみつめる視線にやわらかく暖かいものが混じっているのに気づいた。

僕は動揺した。こんなものが自分の中にも芽生えるのだと感じていた。数ヶ月前に由紀江ちゃんから一方的な後押しをされて涼風さんとの間に少し妙な雰囲気が漂ったことがあったが、それとは全く別のものだった。ため息とも何ともつかない吐息が何度も出た。
扱いに困る、やっかいな、という否定的な形容詞がつくのに放り出すことも後回しにすることもできない感情から生まれるため息だった。ため息の素とでもいうべきものがあったとしたら、それが吐いても吐いても少しも減らないという状況が僕の胸の辺りにおいて起きているようだった。そんなことをしていたのでその日はいつもの倍の時間をかけて宿題と格闘する羽目になってしまった。


次の日の昼休み、僕はいつもより幾分か足早になって図書館への階段を登っていた。登りきり、覗き込むが図書館には誰の姿もない、もちろんカウンターの昨日彼女が涙を流していた場所にも誰もいない。けれど僕は昨日の光景をそこに見ていた。うつむき、しゃがみこんだ彼女の姿を見ていた。足がなぜかカウンターの中に向く、昨日僕が彼女を見ていた場所へいざなうかのように。しばらくボーッとしていたのだろう、僕は
「せんぱーい、何してるんですか?お茶が冷めちゃいますよぉ」
という昨日の涙の主の呼び声で我に返った。
「う、うん、今行くよ」
と応えたものの少し呼吸を整えなくてはいけないくらいに僕の胸は動揺していた。

司書室に入るとそこにいたのは由紀江ちゃんだけだった。
「司書さんは?」
「出張だって昨日言ってたじゃないですか」
「三蔵は」
「クラスの委員の集まりだそうです」
「てことは茂持さんも、、、」
「はい、以下同文です」
図らずも2人きり、である。でもこんなことはよくあることだ、放課後なんか週1くらいは、、、でも、、、。そんなことを考えているので自分自身でも食べてるんだかどうなんだかわからない昼食をとっていた。
「売店のパンの種類が増えましたね」
「好きだったジュースが自販機から消えちゃったんですよ」
「土日に塾に通うことになったんですよ、あーあ」
由紀江ちゃんが色々と話しかけてくれているのだが僕のせいでどうにもまともな会話にならずに困っていると急に話が僕のことに移った。
「ところでどうですか、すずちゃんとの進展は?」
「ぐふっ」
この話題にはさすがに体が反応した。口の中のものをお茶で流し込んだ後も少しむせた僕に
「さては、、、何かありましたね!今日ぼーっとしてるのは それが原因ですね!さあ、言ってしまってらく〜になりなさ〜い、ほらほらぁ〜!」
と、大袈裟な身振りまで加えて追求してくる。
「あのね、、、」
「わかった!昨日の夜電話でついに、、、こ・く・は・く!しちゃったわけですかぁ!きゃー!きゃー!きゃー!」
「してません」
「あ、じゃあ、、、すずちゃんからこ・く・は・く!されちゃったわけですかぁ!すごーい、すずちゃんすごーい!」

僕はいつもの「やれやれ」というため息をついた。しかし、ため息をつく自分ですら昨日までとは違うことに気づいた。いつもならため息とともに体の力が抜けてカウンターや机の上に上体をつっぷしそうになる。しかし今日は体の力はそこそこ抜けたが視線動かず、由紀江ちゃんから離れない。さらに放心したようになるいつもの「あーあ、、、どうしたものかな」という意識はあるのだが、表情には笑みが浮かんできている。
何だろう、これは。
由紀江ちゃんもそのいつもと微妙に違う反応を感じ取ったのだろうか、こちらを見つめて固まっている。

不思議な「間」が生まれる。
チッチッチッ
時計の秒針の音だけが司書室に響く。
次の「チッ」を待ちわびることが永遠に続くかのような感覚の中、突然
「先輩、、、」
由紀江ちゃんがその隙間に滑り込ませるように言葉を発した。僕が身構える間もなくそれに続いた言葉は
「鼻から糸コンニャクが」

いつまでも動かないかと思われたこの時間はまるでコントのようにきれいにオチがついて再び現実の流れの中へと戻った。


図書館に来ると探してしまう。
移動教室があると2年生のクラスの前の廊下を通るルートを選びそうになってしまう。
「松原」という著者の本をみると反応してしまう。

意識が変化を起こしてから1月ほど経ち、確信が生まれた。
結論。
これは「恋」だろう。
まいった。
安住の地として選んだ唯一の場所が一番心落ち着かない場所になってしまった。別に悪いことではない、けれどまいった状況だ。
長く一緒にいたことが下地となったのだろうか、考えてみれば「友人」というくくりであってもこんなに長い時間女の子と一緒にいたことはなかった。それは居場所を求めていたことを差し引いてもその空間が心地よいと感じていたことの証なのだろうか。

そんな日々を続けていると、人並みな感情が僕にもあったらしく想いを伝えたくなったのだが、どうしたらいいものかと思い悩むのもまた小説の中だけの話ではないのだなあと実感していた。
思えばまともに「告白」などというものをしたことがない。本音で人とぶつかり合うことを避けてたどりついたのが今のこの場所であるくらいの人間なのだから、ぼんやりした片想いが浮かんでは消えた(そんなに数は多くないが)自分の歴史の流れからいってこのままなのかなとも思った。

けれど、ほぼ毎日そばにいるのだ、話もする、一緒に仕事をする。そんなことをしてほぼまる1年もつきあってきている。おそらく今後も変わらないだろう。あと1年は。
そこが今までとはちょっと違う。
このまま過ぎ去らせることが困難なのだ。こんな思いのままずーっとやっていく自信が情けないことに
「ない」
心地よさとともにある「柔らかな辛さ」に耐え切れない。かといってストレートに言うのもまた困難に思えた。
以前、茂持さんに少女小説と言われるタイトルを読むのすら恥ずかしくなるような文庫をムリヤリ薦められて読んでみたことがある。その中の主人公に起こったハートマーク付きの事件を「こんなオーバーに考えなくても」と笑っていた自分だったが、まさに今の自分がそのとおり、いや、それ以上にうろたえているのが現実だった。

どうしたものかなぁ、と思うこと数日。自分の中の時間としては何倍にも感じられた時間の中で僕としては前代未聞と思える方法を突如、思いついた。想いを伝えられて、他の人になくて僕と彼女に共通するものがある、それは
「リレー小説のノート」だ。

書きたいことを書く。という場である、言いたいことを言う、今、言いたいことがあるならここで言うのが自分にとって一番無理がない。しかも読むのは自分に近しい、信頼しているほんの数人だ。人の目を気にすることも、誰かに聞かれることを怖れることもない。
我ながら名案すぎるくらい名案だ。それに他に方法もない。そうなればもはやためらうことはなかった、次の日の予習を最低限だけ行うと持てる文力の全てをあげて下書きに取り組んだのだった。

使う登場人物は

バード
男 精霊使い(修行中)
素性は明らかにされてない。
ストイックに何かの罪を償うように一人で修行の道を歩む。

リーミア
女 精霊使い(修行中)
天涯孤独の身。故郷を親友ニース(神官見習い)とともに故郷を離れ修行の道中。
若くして亡くなった母の跡(名)を継ぐ精霊使いになろうとしている。

この2人をうまく使って何とか彼女に伝えよう、そう思って書き続け約5日の後、
「ちょっと長く書くから」
と言って普段は誰も持ち出さないノートを持ち帰り、ついに書き込んだ。



精神の「支柱」とでも言おうか、人の心の柱となる、自らの力で立ちつづけるためのよりどころたりえるものが人の心にあるとする。その柱を強烈に揺さぶる精霊の力が働く洞穴のあるその修行場に2人は挑んでいた。自らの心の姿と対峙し、その強さあるいは脆弱さを知るため、負荷を与えることによりその強さを高める修行場である。力なきものはその精霊に感情を支配され心のバランスを崩し、正常な精神状態を保てなくなる。
精霊使いを志すものにとっての一つの壁といわれる、そして危険度の高い修行場であった。この修行をのりこえられず、自信を失い、あるいは精神に傷を負い、高位の精霊使いとなる道を諦めた者も少なくない。洞穴を進むうちにたどり着いた開けた場所で2人はこれまでで最大レベルと思える精霊の干渉を受けた。

リーミアは自分がみるみる小さくなっていくような感覚におそわれていた。いや正確には、孤独、悲しみの感情に対し、自分があまりに無防備になっていて、その対象が抗い難いくらい自分にとって巨大だという感覚だった。この修行場に送り出してくれた導師の助言が一瞬頭をかすめたが自分のものと思えないくらいに激しい流れとなっている感情に振り回されるままとなっていたリーミアにとってそれは激流の中の1枚の枯葉のように力とならないものだった。

バードもまた己の感情の激流と格闘していた。しかし彼にはかろうじて傍らの少女を振り返る余裕があり、ここに来る少し前の記憶が呼び起こされた。

「あの子、泣かないんだよ。弱音も吐かないんだ、お母さんが亡くなったときから一度も、、、」
彼女の連れの神官見習らしき少女が言っていた言葉だ。
隠した弱さ、他の感情で覆い隠した弱さ。それが防壁を失ったとき、そこから自分の全てが決壊する。先ほどまで見せていた気丈な表情が消えうせ、年相応の少女の顔になっている。しかしそれは泣き顔だった。抗うすべを知らずに嵐の中に漂い続けることを強要されているかのようだった。
危険だ。
彼女に感じた危うさ、それに伴う不安が的中していた。自分だけならなんとか正気を保つことができる、しかし彼女はもたないだろう。彼女は未来ある存在だ、無理をしてここで取り返しのつかないことになってはならない。
勇気とは引きかえすべきときを見極めることだ。
弱さを認めることだ、それを否定することじゃない
連れの少女の心配そうな顔がよぎった。
彼女を止めなくては。
帰還の決意をする時だった。導師の言葉によれば洞穴の中で一歩でも後ろに下がるものは修行を中途で終わらせる意志ありとされこの空間から排除されるということだった。
一歩でも下がればこの修行場の支配から逃れられる。。
建て直しのための退避は認められない。
修行の成果は完遂かゼロ。
だが、急ぐことはない。機会はまたつくればいい、少し早すぎただけなのだ。この修行を乗り越えるだけの修練を積んでからでも遅くはない。バードはどうにか自分の心の制御をなしえ、退避を勧めようとうずくまり、震えているリーミアに近づいた。
「リーミアさん、もう、、、」
限界です、下がりましょう。と言おうとしたときバードは感じた。
彼女の感情が精霊の力によって増幅されているからだろうか、
それとも自分の感応力が一時的に研ぎ澄まされているからか

隠されていたリーミアの最深部の感情を。
2代目にありがちなエリート意識ゆえの強がり、ではない。
彼女が母親を失ったときの感情。
足手まといになった。
自分がいなければあんな程度のことで熟練した精霊使いである母親が命を落とすことはなかった。
そして、母親の死を精霊使いとしての未熟さゆえと影で言う母をよく思わない老いた精霊使いたちへの怒り、それが彼女の道を歩む決意をした理由だった。


母が命を落としてまで救ってくれた私が
老人達の想像など及びもつかないほどの精霊使いになれば
母の名誉を守ることができる。

そのためには進むしかない、わき目など一瞬たりともふらず
1日でも早く精霊使いの頂点へと上り詰めなくてはならない


しかし今消し飛びそうな自分の意識。
最初の壁と言われるこんなところでつまづくわけにはゆかないのに。
老人達の醜悪なしたり顔が浮かぶ。

こんなところでつまづくわけにはゆかないのに
母の墓前で誓ったのに
つまづくわけにはゆかないのに
ゆかないのに
母さんのために
ゆかないのに
母さん、、、
ゆかないのに
母さん、、
ゆかないのに



だめだ。今退いたら、自分を支える信念を失ったら、彼女の精神そのものが崩壊してしまいかねない。今の彼女にあるのは母への想いだけだ、他に支えになるものがない。退くことはそれを裏切ることになる、みずからの意志で裏切ってしまうことになる。
だめだ、退けない

でも、どうしたらいい?
彼女を助けるには、彼女の心を守るためにはどうしたらいい?
バードにはわからなかった。

ただ、気がつくと彼女の震える肩を抱きかかえていた。そして、彼女が精霊の干渉に負けないように、彼女の意識が霧散していしまわないように、彼女を守りたいとただ思って、
がんばれ
がんばれ
がんばれ
と、よびかけるように叫んでいた。



暗闇に差し込む光のように声が聞こえた。
リーミアは何かが心に生まれにたことに気づいた。最初はそれが何か全くつかめなかったが揺れ続ける自分の掌の中に次第に確かな、そして不思議な温かさがあると感じ取れるようになった。上も下もわからないような激流の中でそこが支点となり、自分がここにいるということが確かめられたように思えた。
そうだ
わたしは
私は、どうしようなんて思っている暇はないんだ、進むんだ、前へ。

キッと意識を収束させ、視線を定め正面を見つめると手足の感覚がはっきりと戻ってくる。ここが修行場だと五感が思い出す。ブーツ越しに足の裏の岩盤を感じる。
行こう。

しかし、立ち上がろうとした体は前に少し傾いただけだった。
「?」
何かが自分の上に乗っているので立ち上がれないのだとわかった。何だろう、と首をくるりと回すとわずかな空間の向こうに人の顔があった。

びくうっ

思わず体を後ろに引いてしまった。しかしその顔もいっしょについてくる。
「わわわっ!」
そんな声がした。

ぶつかる!と思い目をつぶったが、衝撃はいつまでたっても訪れなかった。
その代わりに
「あの、、だ、、大丈夫ですか、、、」
というとまどった、それでいて優しい感じのする声が聞こえてきた。

再びはっとする。自分の掌の中に誰かの手がある。それは、バードの手であった。

はわわっ!
思わずふりほどいてしまった。

「あ、ご、ごめんなさいっ!」
バードが謝った。
「は、はいっ」
ととっさに応えたが自分の発した言葉さえよく聞こえていないかった。

手が熱い。顔が熱い。そして心臓が今までに一度もないくらい激しく脈打っていたしかし、なぜかリーミアはすいっと立ち上がり歩みを進めたい気持ちにかられその通りに行動した。

ずんずん進むうちに急に視界が開けた。
風も日の光も感じられる。
(私は、、、修行をのりこえたんだ)


洞窟の出口に立つ2人
リーミアは乗り越えた充実感につつまれていた
が、
置いて行かれそうになりながらようやく追いついたもう1人はなにやら困惑というか落ち着かない様子でその後ろにたたずみ、どう切り出したものかと悩んでいた。しかし意を決したようにリーミアの前に回りこみ
「あの、さっきは、その、すいませんでした!」
と頭を下げた。
「え?」
高揚感につつまれていたせいもあるだろうか、リーミアはまさに突然、一体、何のことでしょうという反応を返してしまった。
「あの、ですからさっき洞窟で、あなたの肩に覆い被さる、というかその、あのそれで、あなたの手を、、、」
単純に言えば
「リーミアが正気を失わないようにとの思いで後ろから肩越しに杖(スタッフ)を持たない方の手を握った」
ということなのだが、朴念仁であるバード、女性とこういったことになるのは初めてであった。誠実であろうとするあまり、細かに説明することでよけいに相手に意識させてしまうということがバードにはわかっていなかった。そしてそれを妙に意識して話してしまうので相乗効果となって言っている方も聞いている方も真っ赤になってしまうという事態を生んでいた。

なんとか話しきり、リーミアの反応を待つバード。
黙る2人。
黙りつづける2人。
「あっ、あの、私、、、気にしてませんからっ!」
バードに視線を戻さないまま、しかし先ほどの恥ずかしくも誠実なバードの態度に自分もきちんとした態度で応えようと、リーミアはやっとのことでそう告げた。口ではそう言ったものの膨れ上がってしまったリーミアの意識はそう早く消えるものではなかった。振り払おうとしてもささいなひっかかりからまたそこへ意識が戻ってしまう。

そんな堂々巡りが幾度続いただろうか。
記憶の異なる部分
この手の感覚が失われていたときと
この手に感覚が戻ったとき
が一つの感覚で不意につながった。
(あ、じゃあ、あのときのあの感じは、、、)
消え入りそうなほど弱くなっていた自分の意識をつなぎとめてくれた声と手の中に生まれた温かさ。あれはこの人がくれたものだったのか。
自分を支える他人という存在があること、母以外の、唯一の友ニース以外の、、、。
心が何かで満たされてゆく感じがする、それに飲み込まれるくらいに、、、。
ちらり、と傍らの存在を振り返る。伏し目がちなおかげで重ならないバードの視線に救われた気がした。深呼吸をし、ぶるぶるっと頭を大きく振り意識を切りかえる。

いい、このことは、もういいことにしよう。何はともあれ私は乗り越えたのだ。今はそれに胸を張ろう。
「あの、、、早く導師様のところへ戻りませんか?」
リーミアのその言葉をきっかけに2人は帰還の途についた。

歩き始めてしばらくしてバードがリーミアの横顔をちらりと見ると自
信に満ちた表情をしていた、早く導師に修行の達成を報告したいのだろう。
引き返さなかったことは正しかったのだろうと思いつつ、あの時に
感じた彼女の秘めた弱さに少しの危惧を抱いていた。
(このことは彼女の連れの神官見習いに話しておくべきだな)
バードは幾分神妙な面持ちで遅れないように歩を進めた。

数刻の後、導師の庵が見えてきた。

2人は導師の庵で報告を行った。うやうやしく導師の話に聞き入り、さらなる修練に勤めることを宣誓した。
町へ戻ろうとする2人に対し、導師はバードに少し話があると告げ、リーミアには外でしばし待つようにと言った。言われたとおりに二人は一時別れた。

庵の奥まった部屋にいるのは不安げな導師と険しいまま微動だにしない表情のバード。
まるで逆の表情、どちらの立場が上かわからない様子だ。
「バード、もうよいのではないか?」
ためらいの色を含んだ声で導師は口火を切った。
「、、、」
その問いかけに対し、バードは沈黙をもって応えた。
「おまえに非はない、恥じるところもない、なぜゆえにそこまで自分を追い詰める」
「私はただ、道を極めたいだけです」
「おまえの父は、確かに、、、」
「父の話はやめてくださいませんか。私は私です。」
「しかし、バードよ、おまえは再び何かを失うかもしれぬぞ、その道に殉ずることで誰かを傷つけるかもしれぬぞそれでもよいのか」
長い沈黙
「わかった、もう何も言うまい」
「お心遣い痛み入ります、失礼いたします」
頭を垂れ、バードはその場を辞した。この間表情を一切変えなかった若者の行く末に言い知れぬ不安を抱き、導師は大きなため息をついた。

リーミアはバードを待つ間、また先ほどの思考に支配されそうになったので、街に戻った後、ニースに提案する次の修行地のことを考えようとしていた。
「ニースが目指す次の地に近いところは、、、」
などと口に出し、地図を広げることでそのことになんとか集中していた。
ふと視界に人影が現れた。少女、と言っていだろう。年のころは自分より2つから3つほど幼いだろうか、木陰から何やら庵の中をうかがっている様子だった。
(自分達と同じ修行者だろうか?)
自分より幼い者がこの修行場に来ている。そのことに少しの嫉妬を感じつつ視線を向けると向こうもこちらに気づいたのかちらっと顔を向けてきた。その少女は視線を上下させリーミアを見たかと思うと庵の入り口を見て、またしばらくするとリーミアを見るということを何度か繰り返していた。興味があるというよりは値踏みをするような、あまり好意があるようには感じられない視線だった。

ギィッ

庵の扉が開く音がした。反射的にリーミアはそちらを向く、そこにはバードが姿を現していた。バードはリーミアの姿を見つけると
「お待たせしてすいません」
と駆け寄って来た。
「いいえ、じゃあ戻りましょうか」
「はい」
と言って歩き出したとき、リーミアは先ほどと同じ感じの、しかし幾分強い視線を感じ振り向いた、そこにはやはりあの少女が木陰からこちらをうかがっていたが、リーミアが気づいたからかさっと隠れて見えなくなってしまった。
「どうか、されましたか?」
「え、いえ、何でもないです」
きっと私と同じように同じ修行者としての対抗心を持って見ていたのだろう、そう思い、リーミアは少女のことはあえてバードには告げずに歩き出した。


数刻後リーミアは困っていた。
意識があることの方へ行って戻しきれない。
ところはリーミア達が滞在している宿の前。宿まで戻ったとき、バードが
「連れの方にお話したいことがあるので、、、」
と申し出たのでニースを呼びに部屋へ行ったのだが外出したと宿の主人が教えてくれたので入り口で待つことにしたのだが、何もすることがなくバードと2人でいると思考は洞窟での出来事へ向ってしまう。特にバードに細々と説明されて思い出した「心が何かで満たされてゆく感じ」にとまどっていた。間が持たず、何か言わなくてはと思うあまり、
「あ、あの、ありがとうございましたっ!」
と控えめながら叫んでいた。
「え?」
当然バードは何が起きたのだろうという反応である。しかしリーミアは何かに押されるように続けた。
「あの、その洞窟で、その、、、手を、あの」
バードの弁解と大してかわらないしどろもどろさで
「自分が意識を保てたのはバードのおかげだったということ」
「そのおかげで修行を乗り越えられ、とても感謝していること」
を説明した。
なぜこんなことを急に口にしたのだろう。
なぜこんなに緊張して口が回らないのだろう。
ちゃんと伝わっているのだろうか。
そう思いつつなんとか話終わったとき、リーミアは頭と体がボーッとして半ば放心したような状態だった。
「あのっ、、、」
先ほどのリーミアよりもだいぶ早くバードは沈黙を破った。
「お役に立てたのなら、嬉しいです、、、本当に。でも リーミアさんの持っている力があってこその成果だと 思います、だから、感謝なんて、、、」
と、恥ずかしさの混じったとても穏やかな表情をリーミアに向けた。その表情(バードの顔をまじまじと見つめたことが初めてといってもいいくらいのリーミアだったが)に洞窟で精霊に感情を翻弄されているときに感じた温かさを再び感じた。
「は、はい、、、」
何に対してなのかよく分からないままリーミアは応えていた。そして先ほどまでの落ち着かなさが少しおさまり、何かわずかながら居心地の良さを感じていた。

顔のほてりもなんとかおさまり、夜のとばりがおちてきたがニースはまだ戻らない。
急ぐ話ではないからと言って明朝出直すと告げバードは自分の宿へと向って行った。
その姿を見えなくなるまで見送り、
ふうっ

と息を吐きだした瞬間
「ふ〜ん、ああいう人が好みだったのねぇ〜」
という聞き慣れた音色であったが全く聞き慣れない感じの声がすぐ側で聞こえた。
「な!、、、なんで、、、いるの、、、?!」

言いたいことはいろいろとあったのだがニースがさっさと部屋に戻ってしまったのでリーミアもそれに続かざるを得なかった。後に続いて部屋の中に入ると手を顎の下で組み、含みのある笑みを浮かべてニースがこちらを向いていた。
「リーミア、がんばりなさいよっ!」
「何をよ、、、ってそうじゃなくて、聞いてたの、、、?」
「何を?」
「さっきの、、、話を」
「うん、だいたい」
「何で!」
「だって、いい雰囲気だったからじゃましちゃ悪いなって思ったから」
「そんな、バードさんがせっかく待っててくれたのにっ!」
「へ〜、バードさんっていうの、あの人。リーミアの運命の人は」
「う、、、う、運命?」
「そう、心配してたのよ、あなた修行一筋で初恋なんかもまだだったんでしょ?」
「そ、そんなこと、、、」
「明日も会えるんでしょ、というか私に言いたいことがあるんだってね、何だろね?」
「知らないわよ」
「、、、ひょっとして!」
「(?!)」
「『リーミアさんを僕にまかせてくれませんか』とか言われちゃうのかも?うーん、そうなったらどうしよう、、、どう思う?」
「もう寝る!おやすみ!!」
リーミアは話が終わりそうにないのと自分の顔が真っ赤になっているのを隠したいのとでニースに背をむけ、ふて寝を決め込んだ。
しかしなおも後ろからは
「暗くてよく見えなかったから明日はじっくりお顔を拝見させてもらおっと」
「ねえ、あれって告白だったの?」
「それとも彼からの告白への返事だったの?」
という攻撃の手は止まなかった。自分に相手の言葉を出なくさせる術が使えれば迷わずかけていただろう。そう思いつつリーミアはムリヤリに眠りに落ちてゆこうと試みていた。


ぱたん。
と由紀江ちゃんがノートを閉じる音がした。ような気がして最高に緊張しつつ見回りからカウンターへ戻る。今日も2人だけの当番だ。狙ったわけではないが幸いだ。内容について他のメンバーと話すことがない。明日までは由紀江ちゃんの頭の中にしかないことになる。
(こんな幸運が続くのは成功する兆しだろうか?)
そんな思考がふと浮かんだ。しかし由紀江ちゃんの姿が目に入るとまた大緊張状態に戻り
余裕がなくなる。努めて自然にと深呼吸をした後、声をかける。
「閉め、ようか?」
「あ、はい。すいません、ずっと読んじゃって」
「バタバタ」というより「ぱたぱた」という感じで荷物をまとめる由紀江ちゃんがノートを委員専用の棚に入れる。何でもないことなのになぜかそれがすごく印象的だった。僕も荷物をかつぎ、由紀江ちゃんに先に出てもらって電気を消し、扉を閉めて鍵を架ける。

4階の図書館から下駄箱のある1階までの階段。何もしゃべれない僕に由紀江ちゃんが話しかけてくれた。
「今日の、すごく長かったですねぇ」
「あ、うん、けっこうね」
「昨日だけで書いたんですよね、すごいですね」
「うん、下書きはちょっとづつしてたんだけど、一気に書いちゃいたくてね」
階段を降りる速度が速い気がする。ふわふわした感じで足を動かす僕は会話もほとんど上の空だ。
「それにしてもぉ」
再び由紀江ちゃんが口を開いた
「あの小説、ついに恋愛まで始まっちゃいましたね。」
心に少し衝撃が押し寄せた。
「この先の展開が気になりますね、きっとみんなも催促してくると思いますよ。」
「うん、そうだね、、、」
「あの、リーミアって娘(こ)の想い、届くといいですね」
「うん」
僕はこれだけははっきりと言えた。そのとき階段が終わり、1階に2人とも下り立った。
下駄箱まではあと購買部と女子更衣室のある廊下が10数メートル。僕の右側を由紀江ちゃんが歩く
「先輩、一つ質問してもいいですか?」
「、、、うん、何かな」
ドキリとしつつ由紀江ちゃんの方に体を向けて応える。
「あれってけっこう真にせまってますよね、ひょっとしてモデルがいるんですか?」
来た。
ここが勝負だ。
「うん、、、いるよ、、、男女が逆なんだけどね」
「え!?、、、誰ですか?」
僕は少し躊躇した。
(う、、、ん、、、)と無言になってしまう。
由紀江ちゃんは興味深々といった感じで矢継ぎ早に聞いてくる。
「私の知ってる人ですか?」
もうためらっていられない。
「うん」
と僕は答えた。
「えー?、、、誰ですかぁ?」
心臓の音が大きくなった、いや、それしか聞こえていなかった。想像もつかない、といった感じの彼女の顔しか見えなかった。

僕は右手のひとさし指をぴっと伸ばし、自分を指差した。
そして手首だけをくるりと時計周りに180度回して
きょとんとした表情をしている後輩の女の子の顔の前でぴたりと止めた。

こんなことを予想していたわけじゃない。
狙っていたわけじゃない。
まったく偶然だった。
言葉じゃなくて伝えられたらと思ったことがこんな形になるなんて。
言葉にするのと同じくらい体は震えていた。なぜか指先だけはスムーズに動いてくれたけれど。この間わずか3秒もなかっただろう。でも僕には時さえ止まったように長い時間に感じられた。

ガシャン
ふいに大きな音がした。
由紀江ちゃんが更衣室の引き戸にもたれている。ちょうど腰を抜かすような感じでぶつかったのだろう。彼女に駆け寄り
「大丈夫?!」
と、自分が原因のくせにそんな言葉が出た。
「は、はい!」
と答えたものの、危なっかしく戸の横の柱にもたれるようにしか彼女は立ち上がれなかった。
「大丈夫、っていうか、ごめん、、、驚かせて」
由紀江ちゃんは何とか立ち上がったものの、どうしたらいいのだろうという感じでうつむいている。
「あの、そういうことだから、、、」
返事はない、でも僕は続けた。
「でも、これからも、できたら今までみたいにやっていけたらなって思うから、よろしく、、、」
僕は何故だか右手を差し出していた。由紀江ちゃんが右手をのばしてつかんでくれた。
それがどういう意味なのかはよくわからなかったけれど、僕は
「じゃあ、さよなら、気をつけてね」
と言って自分の下駄箱へと歩いて行った。

その後しばらく記憶がない。
気がつくと僕はいつもの国道をかなり早い速度で息をきらせながら自転車を走らせていた。最近買ったCDのある曲をBGMとして口ずさみながら何か「よし!」と思いつつハンドルを必要以上に強く握り、ペダルを踏み込んでいた。


10


翌朝
僕はことの重大さに初めて気づいた。
「今までどおり」
なんて言ったものの、彼女にどう接していいのかまったく見当がつかない。僕の居場所は図書館しかない、そこは彼女に会わないことが非常に難しい場所だ。しかも悪くしたことに今日は週に一度の貸し出し当番の日、いくら毎日自主的に出ているからといって当番をさぼるわけにはゆかない。全く味わえない朝食をとって玄関を出る。自転車にまたがることを躊躇したのはこの朝が初めてだった。

思いはぐるぐると回る。
彼女は何て話しかけてくるだろう。
それとも何も話してくれないだろうか。
僕から何か行った方がいいだろうか
でも何て言えばいい?
昨日のことをどう思ってるんだろう。
あんなに驚くなんて。
あの握手にはどういう意味があったんだろう。
拒否、、、じゃなかったよなぁ。

最高の気分で帰ってきた通学路を正反対の精神状態で進む。ペダルを踏む足が重い、というか漕ぎ進むたびに身を切られるような感覚だ。進みたくない。体が情けなく逃げようとして漕ぐのを止めたり、ふらふらとハンドルを切っては到着を遅らせようと試みる。それでも生来の生真面目さからサボるなどということを考えられず、プールの排水口に吸い込まれる枯葉のように自転車はすべり、僕は校門をくぐった。

午前中の授業などないも同然だった。
昼休み、珍しく教室で昼食をとる僕をクラスメイトが少し珍しそうに見る。その視線に感じる居心地の悪さも図書館へ続く廊下を歩くことに比べたらむしろ心地よいくらいに思えた。

異常なくらいに時間をかけてその道のりを踏破し、冷や汗すらかいているような感覚で図書館へと足を踏み入れた。彼女が視界に入ってくるのがこわい。首を固定して視線を意識的に逃がし、ロボットのようなぎこちない動きでカウンターへ入った。耳をすませ、様子をうかがう、、、、

いない。

震えるような安堵とともにこぼれてくる吐息をひととおり出し切ってしまうと僕は当番の仕事を始めた。

あまり忙しくないカウンターを後輩に任せ、新刊雑誌の入れ替えのために雑誌コーナーへ向った。もたもたと作業をしていると
「ちょっと先輩!」
と、急に後ろから声をかけられ、びくっと思わずつま先立ちになってしまった。おそるおそる後ろを向くとそこには茂持さんが立っていた。
「やあ、こんにち、、」
「やあ、じゃないですよ、昨日何かあったんですか?」
「え、、、?」
「由紀江ちゃん、何か変なんですよ、クラスの前を通ったらお弁当広げたままぼーっとしてるし、『今日は図書館行かない』なんて言うんですよ。『何で?』って聞いても『ごめん、行けない』って言うだけで全然元気ないし」
そうか、来ないのかと少し安心したような僕の反応にカチンときたのか
「昨日、当番であの後残ったのは先輩と2人だけだったんですよね」
と詰め寄ってきた。
「何かしたんですか」
茂持さんぐいぐいと近づいて来る。
と、その時僕らの横から
「委員長〜、これは何かのアートかしら〜?」
という司書さんからのツッコミが入った。指差された雑誌棚を見ると裏表紙がこちらを向いていたり、上下さかさまだったり、果ては何故か昨日の新聞までが鎮座している。
「何か、、、先輩も変ですよ、、、」
「、、、そう思う、、、」
僕はぼんやりとそう応え、相変わらずもたもたとしながらアート感覚を実用性重視におきかえる作業を始めた。

結局この日、昼休みも放課後も由紀江ちゃんは姿を見せなかった。

そして翌日の放課後。
部活は、、、無い。役立たずめ、などと虫のいいことを考える。ここにいるしかない。それに逃げてどうするというのだ。

さすがに入り口のすぐそばのカウンターにいるのは度胸がいる。足は自然と奥まった方へ向き、してもしなくても大してかわらないだろう本の整頓をする。
ふだんなら放っておく文庫本の背表紙の出っ張りを直す。
同姓の作家の並びをを下の名前で順に並べ直す。
さらに一人の作家の本について、奥付けの刊行年月日を確認しその順に並べ直す。
むりやり命じられたら苦痛この上ない作業だが今の僕にとってはどこか心を落ち着かせてくれるところがあった。

キイィッ

入り口の取っ手のきしむ音がして、少し空気が動いたような気配がした。

本に伸ばした手が背表紙のてっぺんに引っかかった位置で止まる。

「こんにちは」
この場所は入り口からは死角になっている。
つまり、ドキリとしつつ聞いたこの声の主は僕に向けて言ったわけでは
ない。おそらく司書さんに向けてのものだろう。

「・・・・・、・・・・・」

司書さんと何か話しているようだ。盗みぎきをしているわけではない、しかし意識はそこに集中してしまっている。体は何とか再び図書館の最深部へ向おうとするが足音を立てまいという意識がかろうじて残っているのかまるで動けないでいる。

きゅっきゅっ

上履きのゴム底がこちらに近づくように鳴る。

自然と僕の足が逃げ出す、、、が、もともと奥まったところにいたものだからすぐに行き止まりにたどりついてしまう。参考書棚の小さな机のところ、涼風さんが遺書を書いていた場所だ。

逃げ場、なし。

足音は淀みなく近づいてきて、すぐそこの角をまがった。ゆっくり振り向くと由紀江ちゃんが、いた。

時が止まった。

夕焼け前、薄手のカーテンから漏れる穏やかな日差しにつつまれた本棚の間。僕が一番好きな場所で、一番好きな人が口を開いた。
「あの、、、きのうのこと、いいですよ」
そして少し微笑みのようなものがこぼれ、
「しましょうか、、、おつきあい」
と、いうことばが僕を直撃した。その衝撃の後両手両足、いや、体の全てがが妙に重くなったように感じ、声を出すことさえままならなかった。
何のリアクションも起こさない僕に困ったのか、早口になりつつ半音ほど声のトーンも上がって
「で、でも私、こんなこと初めてなんでどうしたらいいのか わからないんですけど」
と言い、手持ちぶさたな両手を困ったように頭の横でくるくるさせたのはいつもの由紀江ちゃんだった。その瞬間、僕も今までの自分に戻れたような気がした。そして体にやわらかさが少し戻り、震えるようにぎこちなく、胸の辺りから
「ありがとう」
という声を絞り出せた。
彼女のやわらかい、そして恥ずかしげな表情がとけだしてきたような空間で、先ほどの衝撃が少しずつ嬉しさに変わってゆく感じがしていた。
「戻りましょ、カウンター、空っぽですよ」
「うん」
僕らは二人連れだってカウンターへ向った。朝からのもやもやは全てきれいに晴れていた。
それどころか自分のまわりの全てが輝いているように見えた。
未整理の新刊本も
期限オーバーの返却本も、
閲覧用机に放置された雑誌も、
相変わらず現れない今日の当番も、
心を逆立てることなく全て許せた。
この場にあるものがすべて素晴らしく思えた。

いつもの定位置に二人で並んで立つ。
ちらりと横を見る、少しはにかんで視線をそらす彼女がいる
僕も少し恥ずかしくてカウンターに正対するように視線を前に戻す。
「幸せ」
その言葉に一番近い所にいると僕は思った。

11

その日の季節は梅雨を過ぎ、下校時間でも暑さがきびしくなる頃だった。
同じ制服の一団を見かけて思わずスピードを落としたり、街中の歩行者専用道路を律義に自転車を降りて押して歩いたり、初めての一緒の下校はいつまでも寄り道をしていたくなるくらい楽しかった。
学校からはかなり遠い部類に入る僕の家より彼女の自宅はさらに遠い。入学したてのころや、雨足の強い日には恨みさえこもっていたその距離も今日はもっと長ければよかったのにと思えた。

大通りから外れる交差点で
「それじゃ、また明日」
「うん、気をつけてね」
「はい」
「さよなら」
「さようなら」
と言ったもののどちらも先に漕ぎ出せないでしばらくそこに留まっていた。とちらともなく笑い出し、信号が3回目の青に変わったとき、もう一度「さようなら」と由紀江ちゃんが言って、僕が「うん」と軽くうなずいてそれぞれに走り始めた。

わずかな一人だけの帰宅時間、一昨日よりも僕の心は高揚していた。
今日はいろんな話をした。
由紀江ちゃんは
昨日すごく驚いたこと
今日すごくいろいろ考えようとしても考えられなかったこと
図書館に来る勇気を出すのが大変だったこと
茂持さんがいろいろと心配してくれたこと
夏の大会のため合唱部は土・日曜の練習が始まること。
夜は塾へも通うこと。
平日も練習日が多くなること。

僕は
昼休みの茂持さんに聞かれたこと
放課後図書館でしていた意味のない行動のこと
受験勉強にそろそろ本腰を入れようと思っていること
夏休みに入ったら、塾が嫌いなので市立図書館の自習室に朝から晩まで通いつめること。

由紀江ちゃんも夏期講習のために塾に通うこと。
化学と数学が苦手なこと
だったら当番の合間に教えてあげるよなどということ。
忙しくなるね、と互いに言って、でも頑張ってとまた言って。


そしてそのとおりの日々を僕らはそれぞれ一生懸命にすごすことになった。
やはりなかなか二人きりで顔を合わせるときは少なくなっていった。合唱部の灯かりを見つつ一人で帰宅するときやカウンターに彼女の姿が欠けているときに寂しさを感じることはあった。でも大丈夫だと僕は思えた。

(だって、僕たちはつきあってるんだから)

自宅の机に置いた彼女と(他のメンバーも)一緒の写真と修学旅行で彼女が買ってきてくれた受験用のお守りを見つめ、僕は自分の日常を懸命にすごした。忙しさから、寂しさから解放される日をまたのんびりとカウンターでおしゃべりする日を思い浮かべながら。
彼女もまたその想いを胸に頑張っているんだと思い、自分も頑張ろうと思えた。離れていても、あの日の思いでつながっていると。年賀状をごく限った友人と彼女に宛てて書きながらそう思っていた。

(だって、僕たちはつきあってるんだから)










しかし、
その根拠のない自信はいともたやすく崩れることとなる。

12


2月となり、3年生である僕らは受験のために自主登校となり、学校から姿を消すのが高校の習慣である時期に入った。しかし僕は塾に行くわけでもないので、最初の大学の試験日までの緊張感を和らげるために住み慣れた図書館での自習の許可を司書さんにいただいて登校することにした。

特に急ぐ理由もないのだが、早くに登校してしまった。習慣というのは恐ろしい、もう委員長は三蔵に任せたのだから図書館の鍵を開けることもないのに。
一応自分のクラスをのぞいたものの、クラスメイトがいるはずもなく自分の行動の珍しさに軽く笑いながら図書館のある棟への渡り廊下を歩いていた。
正面に人影が現れた。
由紀江ちゃんだ。
心が弾んだ
「おはよう」
かなり遠かったが声をかけた。
由紀江ちゃんは誰かがいるとは思っていなかったのだろう驚いたような反応をした。
でもすぐに僕だと気づいたようだった。そして彼女の言葉を待つ、しばらくまともに会っていなかったから早く声が聞きたい。

「おはようございます、でも何でいるんですか?」

(?、、、違う)
何だろう、この感じは、この違和感は

「こうして先輩とお話するの、久しぶりですね」

何だ?すごく心が落ち着かない、、、何でなんだ、、、?

「それじゃ、日直なので」


そんな僕の戸惑いに気づくこともなく彼女は廊下の角を曲がり、いなくなってしまった。僕は言い知れぬ不安と軽いカバンを抱えたまま、しばらく歩き出せないでいた。

階段の下から他の生徒の足音と話し声が聞こえ、はっと我にかえり急ぎ足で階段を上る。
さっきの彼女の言葉が頭にひびく、同時にあの違和感が襲ってくる。

何なんだろう

図書館のドアが何か急に重くなったように感じられた。足が自然とカウンターの中に向いてしまい、いつもの椅子に腰掛けると、立ち上がれなかった。それほどに僕の体から力が抜けていたのだろうか。
始業のベルが鳴っても、
「仕事しに来てくれたの?元委員長。」
と司書さんがいつものツッコミを入れてくれても、
由紀江ちゃんの言葉に感じた違和感にとらわれてここに来た意味を全く成さぬまま呆けていた。その違和感には「寂しさ」が多分に含まれているようだということしか僕には分析しきれなかった。

13


僕は手紙を書いた
第一志望の大学の試験日まであと10日、このままではだめだと
思ったから。

自分の受験のこと
久しく会えていないこと
これから由紀江ちゃんとしたいこと
そして渡り廊下で感じたこと

便箋2枚に思いのままをつづってポストに投函した。
「大丈夫、、、大丈夫、、、」と言い聞かせても不安は制しきれない。図書館にも行かず、こんな大事な時期だというのに部屋の片付けなどをしてしまっていた。

3日後、思いのほか早く返事が来た。
押し花のシールの封を震える指先で丁寧にはがし、折りたたまれた厚手の便箋をとりだす。

「こういうことを書く機会を与えてくれて感謝しています。」
という丁寧な文字の書き出しに続き、
「わたし、あなたのこと"好き"じゃないです」
とはっきりとした彼女の意志が記されていた。

これだけでわかったはずなのに、僕はすがるように先を読み進めた。

でも"嫌い"でもないです。つまり、どうでもないのです。告白されて、とまどって、でも嬉しかったことは本当です。私のことを想ってくれているんだから私があなたのことを好きになればいいと思ってました。
でも、その後何か違うんじゃないかって言葉にはできないけど思うようになったんです。
あなたはいい先輩でした、まじめで思いやりがあって、自分のことよりも他人を心配して。
でも、恋人としてどうだったかというとあなたは私に何もしてくれなかったように思うんです。
「好き」とさえもはっきり言ってくれませんでしたよね。
自分の想いを私に伝えることだけ、あなたはそこまでしか来てくれなかった。
あなたの想いってここまでなんだなって思えてしまったんです。
あなたを好きになることに自信がなくなったんです。

このこと、言うべきかどうしようか迷いました、でもはっきり言った方がいいってある人にいわれたので言います。
その人は私の彼氏です。今、つきあっています。
その人のこと、私は好きです。はっきり言えます。
その人もそう言ってくれます。
あなたが言ってくれなかったことを言ってくれます。

だからといって言葉が全てじゃありません。

恋愛で、確かなことって、何も無いんだと思います。恋する資格とか、恋人の資格とか、必ず、ずっと好きでいられるなんて言えないし、だからせめて同じ時間を過ごして、その時間だけは二人ということを感じて大切にできたらと思うんです。
そして、互いに好きなんだってことを感じられたら、言葉も何もいらないんだと思います。そういうつながりが私達にはなかったんだと思います。
告白はゴールじゃなくてきっかけで、その後どうなるかが大事だと思うんです。
どうしていいかわからず、不安だった私に気づかずに、あなたは恋人という地位についたことでもう満足しているように見えました。あなたからもらったのはあの日の指先だけの意思表示だけだったと思うんです。

もう、私のことはあきらめてください。



そして僕の受験のことを気遣う言葉で3枚にわたる手紙は終わっていた。


、、、終わったんだな。

妙に静かな心持ちで僕はそう感じていた。

しかし、写真立ての彼女を見つめているうちに僕の心は暴走を始めてしまった。小説のアイデアノート兼雑記帳にめちゃくちゃな文字を書きなぐっていた。悲しみとも怒りとも後悔ともつかない暴走する感情の嵐だった。ページを突き破らんばかりの筆圧、10文字も書かずに見開きが埋まってしまうほどの大きな文字。半ばほどまでしか埋まっていないノートの空白を大方埋め尽くし、まともな声も出せずにうめく自分がこの上なく情けなく思えた。

時刻は夜中の2時を回っていた。

気がつくと僕は詩集を読んでいた。
中学のころに知って、出る詩集全てを集めている詩人の詩集だった。
そこにあるのは片想いのころからずっと、心を落ち着かせてくれた言葉たちだった。13冊に及ぶそのコレクションを僕は薬を飲むように次から次へと読んでいた。

いつしか嵐はおさまり始めていた。
床に散らかした詩集を本棚に納め、ノートの荒れた文字を読み返した。おそらく自分にしか判読できないであろう文字を目でなぞり、つい先ほどの自分自身の行為に苦笑しながらも自分の呼吸と感情が正常な鼓動のリズムに戻りかけていることに安心を憶え、小さく息を吐いた。

そして、そのノートの最後に

「ありがとう、さようなら」

と小さく書き加え、引き出しの中にそっとしまい込んだ。

14


約1ヶ月後、僕は第一志望の大学から合格通知を受け取った。
他の大学も全て合格。よくやれたなと思う。彼女とはあれから一度も顔を合わせていない。
こちらから避けていればそれはさして難しいことでなかった。卒業式の後、司書さんに3年分のお礼を言い、図書館の委員用伝言ノートに後輩たちへのメッセージを彼女の分も含めて書き込んだ。今ごろは各部活でお別れのシーンがくりひろげられているのだろう、後輩たちの姿はここにはない。

カウンターに立ち、3年間を思い起こす。

出会い、事件、別れ、そのほとんどはここで起きたことだった。
いい3年間だった。
そう言える。

思い出にひたっていると歌声が聞こえてきた、
「合唱部ね」
いつのまにかカウンターの向こう側にいた司書さんが言う。
「送る言葉ならぬ送る歌ってところね」
定番とも言える歌だったが思わず聞き入ってしまう、その中に彼女の声も聞こえる、感慨と戸惑いが再び胸にこみあげてきた。
「渡部くん」
こちらを見つめて司書さんが優しい口調で話しかけてきた。
「いろいろあったんだろうけど、、、また遊びに来なよ、歓迎する からさ」
由紀江ちゃんとのことを言っているのだろうか、やはり司書さんは気づいていたのだろう。
「君は歴代の図書委員の中でもかなりよくやってくれたいい委員長だったよ、それは私が保証する。君が育ててくれた後輩たちもきっと立派にやってくれる。だから自分に自信を持って頑張りなよっ!」
そう言って背中をポンと叩いてくれた。
わだかまりは消えてはいなかったが少し楽になった気がした。
「はい!お世話になりました。」
再びお礼を言って荷物をかつぎ、ドアを開ける。
合唱部の歌声から少し逃げるように僕は最後となるであろう図書館からの下りの階段を一段一段踏みしめて降りて行った。


3月も終わりに近づく頃。
旅立ちのときが来た。生まれて初めての一人暮らしをすることになる土地へと向う列車に乗り込む。流れる風景、彼女の住む街外れの駅を通過し、故郷が遠くなってゆく。
急げ急げと心が叫ぶ。
なぜだろう、ここから早く離れたい気持ちになるのは。

彼女のいる街

彼女といた街

僕の知らない時を刻み始める。
僕はまだ、吹っ切れないでいる自分を感じていた。


1年後。
僕は後輩の卒業を祝うために図書館へと来ていた。
図書館の扉を開けるとそこには後輩たちがほとんど揃っていた。
僕が行くということを告げていたのは三蔵だけだったのだが、三蔵がそのことを言ったらみんなが集まってくれたということだった。嬉しかった。
しかし由紀江ちゃんの姿はなかった。
当然かな、と思ったが部活を抜け出してくると言っていたと茂持さんから聞く。そして偶然にも僕と同じ県内の大学へ進学するのだということも。

その言葉どおりに彼女が現れた。
「卒業おめでとう」と花束を渡す僕。
「ありがとうございます」と受け取る由紀江ちゃん。
普通なのだが自然でない会話。僕ら2人にしかわからないことだけど。
5分ほどで再び部の集まりに行く彼女を見送る。僕には何故かその姿があの頃の輝きを失い、くすんでいるように見えた。そして去年と同じ「送る歌」を背に僕はその場を去った。

15


半年後の大学2年の夏休み。
アパートのスチール製の机上には真っ白なノートが開かれている。夏休み中が締め切りの台本の構想用ノートだ。

大学で演劇サークルに入った僕は去年の秋、芝居の台本というものを初めて書いた。新人の練習の一環として書くようにいわれたのだが、その中の恋愛関係について
「この女性がなぜこの男性を好きなのかわからない」
と、言われた。僕は困った。
「だって、恋人という設定にしたから、、、」
と言ったら
「じゃあなんでこの2人は恋人になったの?」
という追求に僕は何も答えられなかった。形だけ好きという規定だけで恋人だと思っていた。
「ほんとの恋を知らないね」
なんて冗談で言われたことがけっこう重く感じられた。
それはまだあのことを解決できないまま放ってある僕自信を責められているような気がしたからだ。

進まない構想に何気なく机の引き出しをいじっていたら古ぼけた封筒を見つけた。表には「Home Town」と書いてある。何だろうと中身を取り出すと、それはあのメンバーで書いていたリレー小説の下書きだった。あんなことがあって完結させないまま放置した物語。
そして、あのころの自分がいるところ。

読み返す。

逃げ出し、直視せずに逃げつづけていた失恋の理由。
頭ばかりで考えてあこがれを追っていた、二人という形だけあれば安心していた、想いとか歴史とか言葉にできないものとかが僕の恋人像にはなかった。
彼女とした会話を思い返してみてもうまく思い出せない。たわいのない会話も深い話も彼女のくれた手紙の別れのことばくらいしか本当のことばはなかったのかもしれない。

1人で勝手に
   真剣に
   考えていた
つもり
ただ
どうしよう
どうしようと
ぐるぐる回っていることが
たいしたことだと思っていた
彼女のことを想っていることだと勘違いしていた。

今になってあの手紙で彼女が言いたかったことが少しわかった気がする。

16


僕は消しゴムを手にした。とってつけたようなハッピーエンドで完結させたその小説の最後の部分を書き直すために。


気持ちの薄さを形だけでごまかした結婚の申し込みをする場面。
街外れの街道の分岐点。一人で旅立とうとするリーミアを
追いかけてきたバード。

最初の気持ちがつながった瞬間から、絆の深まりもなくただ好きということばでくくられ続けただけの二人。子どもが結んだ麻紐のようないびつな縛り方のつながり。

バードが発した誓いのことばを消し、
二人を恋人というくくりから解放し、二人の
いや、それぞれのことばをつむぎ出す。

バード
「僕は、誰かに求められることを欲していただけなんだと思います。
自分を同情でなく認めてくれるあなたがいて、しがらみから離れた あなたの側は聞きたくないことばを聞かずにすむ場所だったんだと思います。 自分を偽っているくせにその虚像の自分を認めてほしくて、昔のことで僕を責めずに、今の必死を誉めてくれる。自分がそれに引け目を感じない相手、、、それがあなただったんだと思います。」

リーミア
「わたし、、、ただ、誰かに頼りたいだけだったんだと思います。
口では一人前と周りに認められるために虚勢を張りつづけて 自分の甘えてた時期を、誇れない今までを知らないということ ぬくもりがあって、弱音を吐いてもきっと今の自分を、精一杯の今だけを知っている人になら必死に隠した弱さを許して、受け入れてもらえると思って、それがその場所がたまたまあなたのそばで、それにすがりつこうとしただけなんだと思います。」

バード
「自分で選んだ道、未熟な選び方をしてしまって、それを全うすることに意味もなく必死になって、心のどこかで自虐的にすらなっていた。でも走り始めてしまったからそれが間違いだと認めることができなくてその張り詰めた糸がゆるんだ瞬間にあなたと重なり合っただけなのかもしれません。」

リーミア
「似ていますね」
バード
「似てますね」

リーミア
「話せてよかったです。ごまかしたままにしたくなかったから。 ここから、いまから歩き出せる気がします。初めて自由になれた気がしてるんです。だから、今は自分らしく歩けると思うんです。だから、一人で歩いてみたいんです。
どうするかってこと、答えは、今、出ないと思います。よく、、、わからないから。
あなたのこと、嫌いじゃないです。でも、、、会えてよかったって、そう、これから、、、ちゃんと好きになれたらなって思います。」

バード
「はい、、、。僕も、いつかまた、逢うことができて、そのとき、あなたの姿を追いかけたくなったらきっと追いついてみせます。そして、そのときの想いを伝えます。だから今は、さよならを言います。」

「、、、はい」
リーミアはうなずいた。
その表情には穏やかな笑みと、今からの歩みに何のためらいもない、振り返らずに行けるという意志が溢れていた。

「さようなら」

どちらからともなくそう告げて、街道の別れ道をそれぞれ見つめる2人。

ジャリ
砂と靴底がこすれる音。
はじめの一歩。
それはどちらの足音だったのかはわからない。
けれどその音を頼もしいものに思い、歩き始めたことは
きっと2人とも同じだっただろう。

恋人と言う枠にお互いを無理に押し込めるのではなく、再び出会い、そのときに二人なりの恋人の形を自然に作り上げられるようになっていたら、きっと一番二人らしく幸せを築いてゆけるだろうから。

だから

それまで

さようなら

「完」


終わりだ。これでいい。
バードは愛されたかった僕、
リーミアは愛したかった僕だったんだなと今わかる気がする。
愛することと愛されることの意味を、形を、自分で勝手に決めて自己完結していたんだなってわかる。
でも、好きだったことは本当だ。あの想いは嘘じゃない。勘違いでもない。
いびつな永遠より、束の間でも気持ちをまっすぐにぶつけ合えた時を大切に思って、僕はまだまだ歩いてゆける。一人でもっと遠くへ歩いて行ける。

さよなら
愛があれば別れもあるんだ。

僕はそんな言葉に勇気づけられている自分に気づいていた。

次回公演の台本のアイデアノートが僕を呼んだ。
手にしたシャープペンシルは何かから解放されたように勢いよく進んで行く。「夏休みの宿題」と重荷に思っていたのがウソのようだった。

一段落ついたとき、ふと思いついてノートの一番後ろにある次回公演の招待状送付先リストに彼女の名前を加えた。
逃げ出したままのあの日にきちんと向き合うために。
彼女の顔を真正面から見られるように。

この台本が採用されたら、と10月の終わりの劇場を思い浮かべたらそこには1人きりの、でも、何かをふっきれた顔をした自分がライトを浴びて立っていた。






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